2010年5月24日月曜日

オバマの核兵器無き世界とは

単に今の世界における戦争の様相に、核兵器は維持管理、使用コストを含めてマッチしないから、というのが真相ではないでしょうか。

実際、今クローズアップされるのは無人攻撃機。あるいは通常兵器ではありながら、即座に相手を攻撃する兵器。

自国の兵士の犠牲を減らし、あるいは遠隔地へ向かう時間を短縮する。

しかし、それにより市民を含めて犠牲者を出す相手国の人々はなにを思うでしょうか。

目の前の戦場に敵がいないなら、相手の本土に向かうしかない。つまり必然的にテロであり、むしろ戦争とテロの区別はもはやない。

Wired Visionのサイトから複数の記事を引用します。

米国の兵士達にストレスはあるのでしょうが、平和なストレスです。

そして核を廃棄しても、それよりも現在の戦争・テロによりマッチした兵器が生まれるのです。

この兵器が稼働する世界とはどのようなものなのでしょうか?仮に米国の敵が東京に現れても、さすがに攻撃はしないかもしれません。しかし、中東のどこかなら?その時、周辺にいる一般市民のことを考えるのでしょうか。

米国は強者の論理で兵器を使用するでしょうが、他国の核兵器の保有、使用を禁じることができるでしょうか。

一年半前のオバマブームはどこへやら。皮肉を込めて言えば、彼も実に米国大統領として”正しい”政策を取っているのかもしれません。

そして、その米国の”石油のための”戦争に依って私たちも生活しているのです。

燃料は無論、化学肥料を製造するためには大量の電気が必要であり、それにより広大な農地を利用して単作農業を行い、家畜を育て、遠隔地へ運び、消費しているのです。安価な石油を必要とする例は他にも沢山挙げられるでしょう。

核兵器は残忍な兵器であることは間違いありませんし、廃棄すべきものです。しかし、その本来の目的は世界の憎しみの連鎖を断ち切ることでしょう。

オバマ大統領と米国はそこへ向かっているでしょうか。

私たちの日常の選択ひとつひとつが、ミサイルの標的になるひとびとにつながっている。そう考えることはできないでしょうか。

エコだから、得になるから、地球に優しいから。その先は?

2010年5月9日日曜日

母の日スペシャル

福岡の実家に送るつもりで焼いていた抹茶とレーズンのマーブル・ベーグル。。。。あえなく失敗。焼きすぎです。どうやら気がつかないうちにオーブンの温度目盛りをさわってしまっていたらしく本来より30°も高い設定になってました。

まあ、普通のパンと思えばいいので、今週自分で食べます。

普通は花を贈るし、以前はそうしていたのですが。母曰く「猫がいたずらして、花をばらばらにするから。」という理由で却下。実家には退屈したりしていなかったりする猫がじゅうさんびき。。。

別のモノを考えます。



週末によく食事に行く場所のひとつに高円寺のマクロビカフェ「百音」があります。そのオーナーさんが先日ご長男を出産されました。そしてその赤ちゃんの写真が店内に飾られていました。

沢山あったなかでも、出産直後の様子を写した一連の写真に感動しました。お母さんも赤ちゃんも真っ赤な顔をして。

今思い出しても心の奥から揺り動かされるものを感じます。泣けてきます。

なんでしょうね、この感情は。

陳腐な言葉ですが、母は偉大です。



話は逆方向に行くのですが、昨今の子供への虐待。。。。個別の事情はあるのでしょうが、父親の育児への無関心、もしくは仕事の事情とか。家族以外の周囲のサポートがないこととか。

以前Twitterに、電車などで出会う親子に親切にすることが幼児虐待をふせぐひとつの方法だと書き込まれていました。

うん、そうですね。目が開かれました。

そして父親の育児休暇。社会として、会社としてどうでしょうか。取りやすい制度あるいは環境になっているでしょうか。

新しく父親になった人に、「嫁さんどうした、子供はどうだ、早く帰れよ。」とそういうだけでも違う未来を子供に与えられるかもしれません。

父も偉大です。偉大になれるのです。




ちょっと感傷的でしょうか。

2010年5月6日木曜日

「いかにして神と出会うか」

ブログ、放置していました。どうもtwitterでつぶやいていたりすると、改めてブログに書くべきこととのバランスが判らなくなっています。書評ブログではないのですが。


プラス、PCに向かう時間を減らそうとしているので、ますます。。。。




クリシュナムルティ著「いかにして神と出会うか」
クリシュナムルティは、宗教なき宗教家です。心を見つめて、既存の神を含めたあらゆる概念を取り除き、でも努力するとまた既存概念に囚われるので、ひたすら見つめて、最終的に心に静寂が訪れたときに言葉を超えた真実が現れると。

これもまあ、自分のTwitterの引用です。

訳者のあとがきでは、禅と結びつけていますが、僕は既存の思考と結びつけなくても良いと思います。彼の言葉を胸にしまっておくと、いつか判る日が来るかもしれません。

言葉自体は判るのです、しかし、経験も時間も言葉も人が生み出したもの全てを超えたことを説明しているので、それだけで彼を理解したことにはなりません。

私たちの精神を形作る、それと意識されない力学を見出そうとするところはフーコーに通じる気もする。でも、それほど透明に(無邪気に?)自己を見出せると考えて良いのか。

彼が生きている間にいろいろ質問してみたかったとも思います。