2010年1月17日日曜日

「破天 インド仏教の頂点に立つ日本人」

先ず自分を愛せないと、人に尽くせないなんてことはない。自らの煩悩と自己嫌悪に苦しんでも、他の存在のために全身全霊をかけて献身できる。


インドには現在、一説には一億人の仏教徒がいるそうです。それらの人々の多くが、カースト制度からも除外された不可触民の人々で、過酷な差別と迫害から逃れるために仏教へ改宗しているのです。その先鞭を付けたのはアンベードカル氏でしたが、彼は仏教徒が安定した地位を得る前にこの世を去ってしまいます。


そこへ現れたのが本書の主人公、佐々井秀嶺氏です。彼は最初からインド仏教徒を救うために現れたのではなく、いわば運命の導きによって彼の地へ引き寄せられたのです。


岡山県の山深い里で生まれ、戦後の混乱の中で生き、煩悩(主に女性に対する)と自己嫌悪に苦しんでいました。そこから仏教に出会い、師に出会い、高尾山で得度。留学先のタイから勝手にインドに赴いたのです。


そこからは、インドの貧しい民衆と共に生き、苦しみ、かの国の複雑な社会と政治と、そしてカースト制度の差別と対決した(している)半生です。






P.339
「今日、明日にでも飢え死にするしかない境遇の人間が瞑想によって救われるというのは虚偽であり、欺瞞でしかありません。<中略>そのような境遇を強いられた人間を救おうとせず、見捨ててる宗教も神も、それは宗教でもなく、神でもありません。
仏陀の説いた慈悲の心、大慈悲心とは、そのような人間を救う心なのです。このような慈悲はヒンドゥの神々にはありません。それは三千年の歴史、不可触民の現実が如実に証しています。」

僕が思うに、このようなアンベードカルと佐々井師の仏教は、今日の日本の仏教徒は異なるものです。しかし、インドにおける不可触民の解放に向けた思想として、現に生きた思想なのです。

昨年一時帰国されたときの佐々井師。




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